熊野那智大社

早朝、旧社地である大斎原(おおゆのはら)*1
  

人気のない熊野川から眺める朝日。
これだから、宿坊めぐりややめられません。d(>(ェ)< )Good!!


珍重庵で朝食後、那智の滝

お滝祈願所のある、飛瀧神社(ひろうじんじゃ)

流れ落ちる滝の輝きは神の姿

社殿はなく、滝そのものがご神体

那智の滝のご神水「延命長寿の水」をいただく






お次は、熊野那智大社*2

ご神木のくすのきに護摩木を持って潜ります。

「やさしくなれますように」
☆〜('(ェ)'*)♪うふ

*1:熊野本宮大社がもともとあった場所。
 現在は2基の石祠が祀られているのみです。
本宮大社前のバス停からですと500mほど離れていますが、近年、旧社地近くに日本一の大鳥居(高さ33.9m、横42m)が建てられましたので、場所はすぐにわかると思います。歩いて5分ほどです。
明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。
かつての本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍もの規模を誇っていたそうです。

*2:熊野那智大社は滝を神とする自然崇拝からおこった社です。
 大滝には現在、「熊野那智大社別宮飛瀧神社」が鎮座し、大己貴命(おおなむじのみこと)が祭られていますが、神社とはいっても本殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形になります。社殿がないことからもはっきりとこの大滝が御神体であることをわからせてくれます。かつての熊野の自然崇拝の有り様を今に伝えている神社のひとつです。

 本地垂迹 

 6世紀に伝来された仏教ですが、次第に神道と融和していき、平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が浸透していきます。
 本地垂迹思想とは、神の本地(本体)は仏であるという考え方。仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です。もとの仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹といいます。また、その仮に現れた神のことを権現といいます。
 平安末期、12世紀には、熊野三山それぞれの12の社殿に祀られた神々は熊野十二所権現と呼ばれ、すべて本体は仏や菩薩であると考えられました。
 本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来那智の牟須美神は千手観音、新宮の速玉神は薬師如来を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土那智は南方補陀落浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。

 しかし、この那智神仏習合の信仰形態も、明治元年(1868 )の神仏分離令によって破壊されてしまいます。那智大滝の飛瀧権現では千手堂が廃され、仏教・修験道を廃した神社「飛瀧神社」となりました。
現在、熊野那智大社という神社と那智山青岸渡寺という寺院が隣接して建ち、熊野三山中もっとも神仏習合時代の名残りを残している那智
 明治の神仏分離令は、もともと一体であった神仏習合の霊地に、神か仏かのどちらか片方を選択するように命じました。本宮も新宮も神を選び、仏を捨て、寺院は取り壊されました。那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行いました。いくつもの仏寺や坊舎が取り壊されました。那智権現は明治4年(1871)に「熊野那智神社」と称し、仏教・修験道を排した神社となりました。
本堂であった如意輪堂は、西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊しはされませんでしたが、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され、空堂とされました。
しかし、その後、山内の人々の願により明治7年(1874)、神社側から独立。「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興されました。後に青岸渡寺は、西国三十三所霊場の第一番札所となります。
 那智大社は、正面に五棟五殿、左に一棟八殿、併せて十三殿が「┏ 形」に配置されています。地形的な制約のため本宮大社や速玉大社のように横一列には配置されず、また第一殿には大滝の神がまつられ、第二殿以下に熊野十二所権現がまつられています
那智は、熊野十二所権現に、大滝の神、飛瀧権現を合わせてまつるため、「熊野十三所権現」とも呼ばれます。)
また、熊野那智大社の主神は、正面向かって左から二番目の第四殿にまつられている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)で、結宮(むすびのみや)とも呼ばれ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同体とされます。
 境内には、樹齢約850年と推定される樟の大木が枝を広げています。幹には人がなかに入れるほどの洞ができています。平重盛が造営奉行をした折、手植えしたものと伝えられています。