ぼくはお金を使わずに生きることにした

 草むらの中で、食用油の缶を積み上げて作ったかまどを前に、髭面(ひげづら)のいかめしい男が半裸で座っている。これはどう見たって、ベストセラーになる本の表紙ではないのだが。しかし、評者は今、やってきたばかりの新年が変動の年になるだろうという予感とともに、その変動のただ中で、この本が果たすことになる重要な役割についての予感を抱いている。
 『ぼくはお金を使わずに生きることにした』というタイトルを見ただけで、ソッポを向いてしまうだろう大多数の人びとにも、ぜひマーク・ボイルという著者の名前と、彼が提唱する「フリーエコノミー」という言葉くらいは頭の片隅に入れておくことを、お勧めしたいのだ。

 彼が2007年に立ち上げたウェブサイトは、急成長し、そこに集う「フリーエコノミー・コミュニティー」の会員は160カ国、3万5000人に及ぶ。フリーエコノミーという言葉を、自由主義経済になぞらえて、自由経済などと訳してはならない。ここでいうフリーは「ただ」や「無銭」のこと。自由は自由でも、お金からの自由のことなのだ。この「カネなし経済」の意義を、自らに、そして世界に向かって実証すべく、ボイルは08年末から2年半の間、お金を一切使わずに暮らした。本書は、その最初の1年の経験を克明に綴(つづ)った貴重な記録だ。

 この現代イギリス版『森の生活』は、同時に優れた経済学の書でもある。並みの経済学と違うのは、問いをたてては「頭と心と手の間に矛盾が少ない」ように答えに近づいていく著者独特の知のスタイルだ。

 本来、経済とは、自然界から受ける恩恵を共同で管理運営していく方法にすぎない。自然とコミュニティーあっての経済なのだ。しかし現代人のほとんどが、経済と言えばお金のことで、マネー経済こそがこの世で唯一の選択肢であるかのように思い込んでしまった。その惨憺(さんたん)たる結果が、今ぼくたちの目の前にある。

 それを超える道は、どこにあるか。交換に基づく経済を超えた、贈与経済にこそある、とボイルは考える。フリーエコノミーとは、ギフトエコノミーなのだ。

文化人類学者 辻信一)   
   日本経済新聞朝刊2012年1月29日付

ぼくはお金を使わずに生きることにした

ぼくはお金を使わずに生きることにした